秦野落花生の歴史

落花生と言えば、千葉県産が有名ですが、実は日本の本州で初めて落花生を栽培したのは、神奈川県です。
では神奈川県のどこが発祥の地か、というと秦野、大磯、二宮と諸説ありますが、どれも特に落花生の栽培に適した条件があったようです。

もともと神奈川県は、水はけの良い土があり、これに江戸時代中期の1807年(宝永4年)に富士山の宝永大噴火で火山灰が降りそそいで関東ローム層と言われる土が混じりました。この土が特に落花生の生育に適した土壌であることと、温暖な気候に恵まれていること、が具体的な理由です。

なお、秦野が発祥の地と言われる説は、以下のように考えられています。

<秦野説>
秦野で油屋を開業していた梅原太平(1835~1891)が横浜で異人豆として売られていた「蒸しピーナッツ」を食べ、その美味に絶賛し、倉庫にあった莢(さや)のままの乾燥豆を少量分けてもらい秦野に持ち帰り、親戚の国府村(現在の大磯町)の農家、渡辺慶次郎に播種を頼んだ。渡辺慶次郎は国府村の自分の畑で春4月、試作を開始したところ、その秋には土の中に落花生が実った。これが我が国最初の落花生栽培である。明治4年のことである。
出所:『慶次郎の贈りもの!秦野らっかせい物語』平成13年10月1日、豆芳商店より抜粋・要約

また、大磯説、二宮説は以下の通りです。

<大磯説>
明治4年2月に中郡国府村字寺坂(現在の大磯町)の渡辺慶次郎さんが横浜に来た時に食べた異人豆とよばれていたものが美味しかったので一粒貰ってきて播いた。なんとか十数粒の落花生が収穫された。翌明治5年に京浜間を幾度となく往来した際に手に入れた五合の落花生の種子と昨年収穫した十数粒の種子を合わせて、中郡尾尻村(現在の秦野市)の梅原太平に頼んで近隣の人にも分与して栽培した。
出所:『横浜貿易新報』5718号、大正6年2月17日(土)(『秦野市史叢書第8集新聞記事』新聞記事から見た秦野のあれこれ、平成16年1月発行)より抜粋・要約

<二宮説>
渡辺慶次郎さん(中郡国府村字寺坂)の栽培後2年の明治6年に隣村の二見庄兵衛(吾妻村字釜町、現在の二宮町)という者が別に横浜から種子を取り寄せて栽培し、8年頃には近所の知人にも分与して大いに培養した。明治15年に偶然二見庄兵衛の畑に一種異なるものが一株発生した。これが今の落花生であって相州落花生の元祖である。それまでの落花生は「ふく性」で栽培が大変な種であった。現在の落花生は二見庄兵衛さんによって発見された「たち性」の落花生の改良種であり、この発見がなければ今日の落花生生産の拡大はなかったといえる。
出所:『横浜貿易新報』5718号、大正6年2月17日(土)(『秦野市史叢書第8集新聞記事』新聞記事から見た秦野のあれこれ、平成16年1月発行)より抜粋・要約

(諸説は「PEANUTS BATTLE」ホームページ「落花生の歴史」から引用させていただきました。)

このように歴史のある秦野落花生を特殊特許製法(特許第5095870号(麺組成物及びその製造方法))で練り込んだのが弊社製品、秦野落花生麺(はだの落花生うどん、はだの落花生そば、はだの落花生ラーメン、はだの落花生スパゲッティ)でございます。
是非一度ご賞味下さい。

ヤマナミコーポレーション 代表 古谷 清